「往く川の流れは絶えずしてしかも元の水に非ず。 流れに浮かぶ泡沫(うたかた)はかつ消え、かつ結びて久しくとどまりたる試しなし。 この世にある人と住処とまた斯くの如し。」
これは僕が今まで出会ってきた日本文の中で心の奥まで痺れるほど最も感銘を受けた一文です。
言うまでもなく鴨長明の「方丈記」の冒頭部分で、この後も文章は続くのですが、僕はこの一文にあまりの衝撃を受けたために、この部分だけしか覚えていません。
何でも「雨天順延」という言葉をたった4文字で表現できるのは日本語だけなのだとか。 これを他の国の言語で表現しようとすると物凄く長い文章になってしまうらしいです。
でもそれでは日本語ナルシストになってしまいます。 きっと英語には英語独特の、ロシア語にはロシア語独特の、日本語には訳しづらい、あるいは訳すこと自体は可能でも語感や語韻でしか伝わらない微妙なニュアンスがあるはずなんです。
だって日本語にだってあるんですから。 良く考えれば、日本語にしろその他の言語にしろ、それらの言語が育まれてきた時間というものに大差があるようには思えませんし、日本語が優秀なのは日本民族が感受性豊かだからだ、という考えでは根拠のない単なる一国粋主義者に堕してしまうでしょう。
数世紀に一度出るかどうかの世界的な偉人でさえも、良く探せばその実力に比肩しうるくらいの人が地味に他の場所に現れていることがあります。
例えばロミオとジュリエットやハムレットで有名なシェイクスピアは現在でも映画の題材として取り上げられたりしており、死後400年経過してもなおその人気に陰りが見えません。
彼の扱っている人間心理は、単純に彼の生まれた「イギリス」で「1600年代」に限定されたものではなく、地球上どこでも時代に関係なく同じ境遇に立たされたならば、誰もが共通に感じる人間心理の集大成です。
ですので彼の作品は彼の名前と共に不滅の光を放っているのですね。 言葉を変えていえば、いくら科学が発展し文明が発達しても人間は何百年間も同じことで悩み続けて争い続けている、ということもできるでしょう。
一方、日本国内に目を向けますと近松門左衛門や世阿弥がいわゆる「日本のシェイクスピア」と言われるほどのポジションにいるらしく、人によってはシェイクスピアを凌駕するほどの高い評価をしているらしいのですが、残念なことに僕は歌舞伎や能については全く無知でして比べることが出来ません。
そこで僕が実際に作品に接し、その作品自体がシェイクスピア作品と比較される機会のあるもの、を考えていましたら一つだけありました。
それはチャップリン映画でした。 彼を映画界のシェイクスピアと評価したのは僕の記憶では確か故・淀川長治さんではなかったかなと思います。
僕は一年ほど前、チャップリン映画をまとめて鑑賞する機会に恵まれて大小10本ほど観たでしょうか。
ほとんどが青少年期に観たものの再鑑賞でしたが、その頃はシェイクスピアを知りませんでしたので、比較のしようがありません。
現在は5、6作品ながらではありますが作品を読んでいるため、「理解」という大口までは叩けませんが「両者に通じる何か」くらいは感じることはできます。
確かに「街の灯」は今見ても涙が出そうになります。 それは僕が小学3年生の時に出そうになった涙と全く同じものでした。 つまり人間の心には時代がいかに移り変わってテクノロジーが進化しても絶対に変わらない何かがあるのです。
僕が方丈記の出だしに痺れるのは、このことを川の流れに例えて一言の無駄もなく表現しつくしているからです。
流れる川の表面には無数の泡沫が現れては消えていく。 そこには同じ形のものは絶対に現れない。 一方人間社会だって地表に次々と人や建物が現れ消えるが、絶対に同じものは出てこない。 人間の営みも川の流れも昔から延々と続いているのに、単純な繰り返しではないのである。