山田洋次監督の「男はつらいよ」という映画作品があります。 タモリやビートたけし並みに、知らない人の方が珍しいくらい、日本中に知れ渡っている映画作品ですね。
男はつらいよファンクラブ会員番号一番は小渕元首相、さらに昭和天皇はこの映画が非常にお好きでシリーズ全てを所持していらしたとか。
このように様々な逸話に事欠かない有名映画シリーズではありながら、作品自体は非常にシンプルで理解しやすく、あえて意地の悪い言い方をするならば、ちょうど水戸黄門のように毎回ワンパターンなのです。
日頃日本中をテキヤをしながら旅してまわっている寅さん(主人公)が、たまに浅草の自分の実家にフラフラっと帰ってくる。 するとそこでタイミングよく寅さんがマドンナ(作品ごとに毎回変わる)と出会い、寅さんが一方的に熱を上げるのだが、マドンナにはすでに恋人がいたり、現れたりして結局恋は実らない。 そして三枚目となった寅さんは再び旅に出ていく・・・。
毎回このストーリーの繰り返しなので、観客もそれが分かっている、というかそういう主人公が見たくて映画館に足を運ぶわけですね。 そしてこのパターンを変えなかったからこそ、水戸黄門のようにロングランを続けた、と言えるのではないでしょうか。
映画に限らず、長寿番組というものはだいたいこういう性格を持っています。
「笑っていいとも」、「サンデーモーニング」、「徹子の部屋」・・・、長年続く、あるいは続いてきた番組というものは一見地味で同じことを繰り返しています。
長寿番組と言われるものの性質を観察していますと、変わったことをあえてしない、同じパターンをかたくなに守ることで観る側に安心感、安定感を与える。 展開が分かっているからこそ需要があり、ワンパターンというのは長寿獲得にはむしろ有利な条件なのです。
話を「男はつらいよ」に戻します。 このようにこの映画も良い意味で展開が読めているがゆえに、長きにわたって熱狂的なファンを持ち続けてきたのです。
さらにこの作品の場合は、「筋が読めている安心感」に加え、主人公(寅さん=渥美清)が代役が成り立たないレベルであまりにも役にハマり、その劇中での一挙手一投足に皆浸りたい欲求があるのです。
これだけの人気作でありながら、渥美さんの死後、シリーズが撮られていないということは、いかに「彼を見せるための映画」であったことが理解できるでしょう。
さらにこれは僕の世代だけの特殊な需要かもしれませんが、このシリーズには1970~1980年代の昭和の美しい、貴重なカットが数多く収録されていて、ストーリーとは別に観ているだけで、非常にノスタルジックな雰囲気に浸れます。
これは僕の完全な想像ですが、恐らく山田洋次監督という人はそれを知っていた。 だから「男はつらいよ」は渥美清という人を見せる(魅せる)ためだけに撮る。(山田監督は渥美さんに対しては演技指導せず、好きにやらせたそうです。)
そして本当に言いたい、表現したいことは、彼の優れた単発作品(幸せの黄色いハンカチ、息子・・・etc)で作品化したのではないでしょうか。
ともかくも「男はつらいよ」シリーズは、山田洋次監督の偉大なるワンパターン作品であると、敬意をもって言わせていただき、この章を閉じさせていただきます。