デヴィッド・リーンという映画監督がいました。 巨匠といってもいいほどの存在で、日本では「アラビアのロレンス」、「ドクトルジバゴ」、そして日本人の俳優であった早川雪舟さんが出演した「戦場にかける橋」が良く知られた作品でしょう。
数カ月前、たまたまBSで「ドクトルジバゴ」を放映していたので、録画して久々に鑑賞しました。 昔一回観たはずなのに、「あれ? こんな内容だったかな?」という不思議な感覚になってしまい、思わず3回ほど鑑賞し直してしまいました。
それはこの作品に「一つの完結した人生が詰まっている。」と感じたからでした。 この映画は非常に長い作品です。 「アラビアのロレンス」もまた、それに負けない規模を持つ作品ですし、監督は異なりますがベンハーも時間、規模ともに巨大な映画です。
しかし僕がこれらの作品から感じる、ある共通した感覚があります。 それはこれらすべてが「人間を描いている。」ということです。
「人間を描く」という言葉自体は良く耳にします。 例えば映画にしろ書籍にしろゲームにしろ、何か新しいものが封切られるたびに、製作者サイドはその言葉を耳障りの良いキャッチフレーズ程度のつもりで軽く使います。
ところが実際フタを開けてみると、その人間を描いたはずの立派な作品群たちは、数年後には存在どころか名前すら消えてしまっているというお決まりのルートをたどります。 作品の価値に対する判断を誤るのは常に熱に浮かされた人間側、冷酷で正確な判断を下すのは常に時間なのです。
僕はクラシック音楽好きなので引き合いに出して申し訳ないのですが、モーツァルトの時代にはサリエリという宮廷作曲家が、ショパンやリストの同時代にはアルカンという超絶ピアニストがいたはずですが、現在彼らの作品に接する機会はほとんどありません。
彼らは気の毒にも、「時間」という裁判官によって断罪され、追放されてしまったのです。 時間は非常に公平かつ正確にその人物や彼らが生み出した創造物の価値を判定しますので、一旦否定的な判断が下されますと、それを覆すのは非常に困難です。 その代わり、この裁判官にみごと勝ち抜いた人物、あるいは作品には「歴史への刻印」といった不滅の称号が贈られます。
少々持論の展開で熱くなりすぎました。(笑) ジバゴ先生でしたね。 その意味では「アラビアのロレンス」にしろ「ドクトルジバゴ」にしろ、現在でも定期的に放映され、DVD化もされている。 デヴィッド・リーンという名前も映画史に燦然ときらめいている。 時間による風化に耐えて、歴史に見事にその名を残しました。 時間というものの偉大性というものを僕はこういうところにも感じます。
よく若くして成功する人は早起きで時間を大切にする傾向がある、時間をお金で買う、みたいな話を耳にします。 確かに一度過ぎ去った時間は取り戻せないですし、人間の寿命には限界があるので、できるだけ健康で若いうちに多くの知識や技術を身に付け内面を磨く、という理屈は十分に理解できます。
しかしなぜだか僕はそれよりも先に書いたように、時間の裁判官的な性質に非常に惹かれます。 カッコいいと感じるのです。 少しくらい冷酷と思われても、そのような冷静な視点を持ち続けたい、と。
時間は人間ではないので、金銭的な誘惑や感情的なしがらみというものとは完全に無縁です。 完璧な公平無私ですね。
それまで世の中に無かったものが突然現れると、人間というものは困惑し、狼狽し、時に熱狂することさえあります。 しかし時間というものは、そういうものにすら無関心です。 人々が虚飾の衣に熱狂している間も、時間は静かに同じペースで歩いているだけ、人々に気付かれないように虚飾を少しづつ剥ぎ取りながら・・・・。
しばらくして虚飾がすべてなくなった残骸を見て、人々はこう言うに違いありません。 「あの騒ぎは何だったんだろう?」と。
人類の歴史上、こうしたことを数え切れないくらい繰り返したくれたことによって、「残すべき本物」のみを選別してくれた時間というものに僕は感謝の気持ちと、カッコよさを感じます。 そしてこういった神の視点(?)というものを自分も少しは持てたらいいな、と思います。
まずい、「ドクトルジバゴ」のレビューを書くつもりが、書いてるうちに全然違うブログになってしまったようです。 これは素晴らしい映画なのでいつか是非レビューしたいと思います。 それでは。