天才たちは何故に若死になのか?
これについて僕は、才能ある者がことさら選ばれたように死んでしまう傾向があるのではなく、文学にしろ絵画にしろ音楽その他にしろ、何かそれまでには存在しなかった新しいものを、ある若い才能が生み出したする。 そしてその才能が世間を騒がしているさなかに早々にこの世から消えてしまったりすると、残された大多数の享受者達(我々)は「あれほどの才能なら、もう少し生きていればこんな作品を生んだかも、あんな風になっていたかも。」と想像をたくましくして、「天才を作り上げてしまう」のではないかと思うのです。
尾崎豊というミュージシャンがいました。 「15の夜」や「卒業」という名作を弱冠10代という若さで次々と世に放ち、さあこれからという時にあまりにもセンセーショナルな死を迎えたために、彼と彼の作品は伝説化しました。 彼の死から20数年以上経った今でも彼の楽曲はあらゆるメディアや街のあちこちで聞こえてきます。 僕もふと彼の曲を聴く機会があったりすると、「やはりいい曲だなあ。」と素直に思います。
彼の熱狂的なファンの中には、彼を不世出の天才とあがめる人達も少なくないようですが、もし彼が死なずに現在も音楽活動を続けていたとしたら、そんな熱狂的な彼らでさえ、彼を「天才」としたでしょうか? 彼の作品が20年以上もの時間の風化の試練に耐え、現在でも聴かれ続けているというのは作品自体の持つ価値の証明に他なりません。 しかし彼の死というある意味ドラマチックな出来事が、彼を必要以上に「不世出の天才」という場所にまで祭り上げすぎているのでは? と思うわけです。
同じ音楽の分野なのでショパンを出しますが、僕がショパンを天才だと確信するのはたった一人であれだけのヒット作を作りまくったからでも、どんな難曲でも楽々弾きこなすテクニックがあったからでも、ましてや39歳という若さで死んだから(笑)でもありません。
彼の作品を聴いているだけの時には気付かなかったのですが、実際に彼の作品の楽譜を鍵盤でなぞってみると、常人には到底発見できないような音の組み合わせ、目の覚めるような転調、まるで夢の中にいるようなとろけるようなアルペジオ。 本当に奇跡としか思えない宝石のようなピアノの響きの連続なのです。
しかも僕が物心ついた頃には彼はすでにこの世には存在していないのです。 良い意味で彼とリアルタイムでの接触がないので、純粋に作品での評価とならざるを得ません。 日本とポーランド、また150年以上という時間を経ても、ここまで心を震わせるのならもう「天才」と言わざるを得ないのではないでしょうか。
100年もすれば、恐らく尾崎豊さんを直接知る人はいなくなるでしょう。 その時初めて評価の土俵はショパンと同じになります。 その時代に現在ショパンが聴かれるほどのレベルで「I Love You」が聴かれていれば、尾崎さんは本物の「天才」なのかもしれません。
天才とは?すごいテーマです。生前に認められにくいのは、悲しいことです。松田優作さん、アイルトン・セナさんはもっと観ていたかったなぁ。