肉塊と化した人間に意識があったとしたら、彼は何を考えるのか? というある意味、どんなホラー作品よりも最恐なテーマに向き合った映画作品があります。 それが「ジョニーは戦場に行った」という1971年、ドルトントランボ監督の映画です。
主人公のジョーという若いアメリカ人青年は年頃の同じ若いお嫁さんをもらって早々、自国の徴兵によって戦地に赴くのですが、着いてすぐに敵国の爆弾に被弾してしまい、身体の部位をことごとく喪失してしまうという不幸に襲われます。
主人公は眼、耳、鼻、口がえぐれてなくなっているために、映画はスタートから真っ暗なシーンで始まります。 聞こえてくるのは主人公の心のつぶやきだけ。 手足もないのですが、上半身と頭の一部は残っているために、ベッドを通じての床の振動や誰かが体や頭に触れた感覚、カーテンを開けた時に差し込む太陽のぬくもりなどから人間のいる気配は感じることができます。
しばらく様子を探っていると、その人間の気配はどうやら複数で、自分の身体にチューブを入れたり、メスで細工をしている。 しかし縫合をしている場所がなにか変だ・・・。 !! なんと、俺には手足がない! しかもさっきから声も出ない・・・。 なんと! 俺には口もないのか!! ということで、自身の身に起きた不幸にようやく気付くのです。
この映画は監督自身が若い頃に書いた小説「ジョニーは銃を取った」を映像化したものらしく、作品自体からは反戦メッセージが強く感じられます。 そのせいでCIAからマークされ、匿名での活動を強いられたりもしたようです。 その時に書いた脚本の一つが「ローマの休日」とは驚きましたが。
状況を悟った主人公は自分の存在をアピールしようと「全身」をバタつかせようとしますが、手足がないために動くのは首だけで、しかもまわりの人間たちはこれだけ身体を損傷していてはまさか意識などあるはずがない、と思っていますので、「意味のない筋肉の反射運動」と見做して麻酔で眠らせてきます。
そんなこんなで時は経ち。 クリスマス。 いつもと変わらない病室で主人公の看病を終えた看護師が病室を去ろうとします。 「メリークリスマス!」と普通なら言うところなのでしょうが、相手は耳も聞こえなければ口もきけません。 そこで看護師が取った方法は胸元に文字を書いて伝えること。 大きく「M」と書くと主人公は「分かる。分かる。」とうなづきます。 そして「MERRY CHRISTMAS」と伝え終わった時、双方がそれぞれに気付くのです。 看護師「この人には意識がある!」 主人公「今日はクリスマスなんだ!」
それからというもの、この看護師は主人公に対して注意深くなります。 ある日、「意味のない筋肉の反射運動」と思われていたものに実は規則性があることに気づいた看護師は軍の上官たちを呼びます。 そしてこれがモールス信号であることにようやく気づくのです。
主人公は自分を見せ物にしてお金を稼ぐか、殺してくれと嘆願します。 しかしどちらの願いも届くことはなく、暗い病室に閉じ込められるところで映画は終わるのです。
僕はこの作品を観終わって、もちろん命とはなんだとも考えましたが、人間を深く考えさせるテーマって昔から変わっていないし、なんだかんだ言って絶対誰かが手を付けているんだな、と思いました。
不朽の名作、というのは撮影手法が斬新だからとか、出演しているアクターが旬だからとかでは当然なく、人間が常に持っている不変の感情を上手に表現できたときに生まれるのだと思います。
例えば自分に奥さんなり恋人がいたとする。 ある日自分の親友が「お前の彼女、他の男と手つないで歩いていたよ。」なんて言われたらどうですか? どんなに相手を信頼していてもその日が地獄のスタートになります。 ただ彼女が家族や友達と楽しく長電話をしているのをチラ見しただけで、もう不倫にしか見えなくなります。 そして最悪、相手を傷つけて破局・・・。 しかもそれが彼女を横取りするために、親友が仕組んだ罠だったとしたら。
これはシェイクスピアの「オセロ」の筋を少し変えただけですが、だからシェイクスピアは400年以上不滅なわけです。 400年前も、今も、多分400年後も嫉妬はこんな感じで変わらないはずです。 まさに「不変の感情を上手に表現している」のです。
というわけでこの「ジョニーは戦場に行った」も自殺しようにも腕がない、逃げようにも足がない、叫ぼうにも口がない、キリストにも「もう私にも救いようがないな」とまで言われた主人公の命の尊厳を考える重要な一本になりました。
人間はどこからが死と言えるのか? 意識がなくなったら死なのか? 植物状態とは実は「こちら側」の人間がそう思っているだけで、この映画の主人公のような人たちは実はたくさん存在しているのではないのか?
尊厳死というものを考える貴重な教材にもなりうる一本です。