見知らぬ人間同士が初めて出会った時、それが唯一お互いを最も私心無く、公平に見つめることが出来る瞬間です。 何か親切にされれば素直に感謝し、また何か思わぬ非礼があって注意を受けたとしても、それが筋の通ったものであれば、謙虚に耳を傾けることでしょう。
しかしプライベートな関係であれ、職場でのつきあいであれ、特定の人間と長い時間接点を持っていると、彼彼女に対する感情的バイアスというものが自然に生まれてきます。 対象となる人物がいわゆる「好印象」を持つ場合、それはプラスのバイアスとなり、逆の場合であればマイナスのバイアスがかかるということになります。
出会った当初は透明だったガラスも付き合いの長さに比例して、徐々にバイアスの曇りによって白く濁っていきます。 厄介なのは一度曇ってしまったガラスを透明に戻すことは至難の業だということです。
幸いなことに人間社会はこの人間心理というものを知り尽くしていて、例えば裁判などはこの「バイアス」をできる限り排除するための舞台装置を整えています。 原告、被告どちらか一方に偏ることのないように検事と弁護人を置き、裁判長が仲裁する。
逆に言うとここまでしなければ人というものは偏見のない視野というものを保持できないのか、と人間の心について考えてしまいます。
僕はここで人物評価というものの難しさを痛感するのです。
僕達がイチローや大坂なおみを素直に認めるのはさほど困難ではありません。
それは彼等の業績が頭抜けているというのもありますが、何より僕らが彼等を直後知らないため、曇りのないガラスで彼等の能力だけを直視できるからなのです。
彼等と付き合いがある、というと自然同業者が多くなってくるでしょうが、そうなると損得勘定やら、能力の相違からくる嫉妬や怨恨が生まれてくることが、多々あるのではと予想します。
ここに至るともはやガラスはすりガラスになってしまい、「認める素直さ」というものが失われていきます。 ただ彼等が残した偉大な功績自体は本物で否定できない事実であるので、彼らを否定するアンチは「たまたま対戦相手が良かった」、「練習量は確かに凄かった」などと、彼等の勝因をなぜかその才能以外に無意識に求めようとします。
人間は何故か能力が人より劣る、ということを認めることにものすごく抵抗します。 かつそれが自分が内心見下していた相手であったりすると、その抵抗は修羅の如きです。
当然見下しているわけですから、最初のうちはナメたようなタタキをしてきます。 それが予想以上にしぶといとわかってくると、方法を変え、また攻撃力も徐々に増していきます。
この状態も末期に差し掛かると、もはや相手の能力を冷静に見るどころの話ではなくなっていて、自身すら冷静にコントロールするのが困難な状態。 勿論、ガラスはサングラス状態ですね。
岡目八目、つまり損得勘定のない第三者が物事の本質を一番理性的にとらえる、という意味の言葉ですが、僕の言うところの透明なガラスの視点の持ち主がこの状況を目にすると、正気を失った人間が正気の人間をいたぶっているようにしか見えないわけです。
僕も人間である以上、完全に透明な視点で人を評価するのは難しいです。 裁判は中立性を保つ、ただそれだけのためにあれだけの手間暇をかけるのです。
なのでせめて最初から色メガネで人間を見るようなことはやめよう。そうすれば、道からは大きくは外れまい。
そう心に誓うのでした。