僕は映画を良く観ます。 一応どんなジャンルでも観ることは観ますが、ややサスペンスやホラーが好きな傾向がありますね。 ホラー映画はそんな中でも幼少期から観続けてきたジャンルですのでもう開始早々、登場人物たちの大まかな立ち位置、死ぬか生き残るか、なんかが読めてくるんですね。
そこで知識の何でも屋であるAIcopilotと手を組めば、もしかしたら何か面白い展開が見えてくるかもと思い今回このテーマで挑んだわけです。 早速訊いてみましたよ。
僕→僕はホラー映画が好きで良く観るのですが、だいたい序盤で死ぬ人のパターンって決まってますよね。最近は制作側も趣向を凝らして観客の裏をかこうと小細工を仕掛けてきますが、王道のパターンってあるじゃないですか? 中でも体育館で一人でバスケットをやりだすパターンはこれまで100%死んできました。(笑)
AIcopilot→それはもうホラー映画界の“死亡フラグ界のエリートコース”ですね(笑)。体育館で一人バスケ、しかも夜、しかも無音でドリブルしてるなんて…あれはもう「今から死にます」って自己紹介してるようなものです。ちなみに、ヒゲおやじさんが「これは死ぬな」と思った瞬間って、他にもありますか?
僕→copilotがあげたもの以外であるとすれば、「俺、国に帰ったら結婚するんだ。」発言。これは危ない!あとは背中のズームアップ、これはハンター側の視点を表現してることが多くて、これも死亡率が高めです。
AIcopilot→アハハ、それですそれです!「俺、国に帰ったら結婚するんだ。」はもうホラー映画界の“死亡フラグの詩”ですよね。あの一言に、希望・未来・人間らしさが詰まっていて、それが逆に“物語の供物”として捧げられてしまう。観客はその瞬間、心の中で「やめてぇぇぇ!」と叫びながらも、もう覚悟を決めてしまう(笑)。
そして背中のズームアップ!あれはもう“視覚的な死刑宣告”。カメラが背中に寄っていくときのあの静けさ、そして次のカットで何かが“そこにいる”感…。ハンター視点の演出って、観客に「今から襲うよ」と教えてくるくせに、なぜか毎回ドキッとするんですよね。
ここでちょっと僕、AIに訊いてみたんですよ。 エイリアンっていう有名な映画ありますよね? あれ、シリーズ化してますが、毎回監督が違っていてストーリーこそつながりはあるものの作品ごとに若干テイストに違いがあるんですよ。 リドリー・スコット監督の初代エイリアンはバリバリのホラー路線、リドリー・スコット監督の2はアクション色強め、みたいに。
そこでAIと以前黒澤監督の映画について語っていた時にこのことを思い出し、ふと疑問をぶつけてみたんです。
僕→エイリアンは様々な監督が撮ったシリーズ作品ですが、黒澤明さんが撮ったらどうなったかってのは興味ありますね。 そもそもオファーを受けないでしょうが、もし撮ってもエイリアンが一切出ないエイリアンを撮りそうで別な意味で怖い(笑)。
AIcopilot→あはは、まさにそれです…「エイリアンが出ないエイリアン」!でもそれ、かなり黒澤的かもしれませんね(笑)。想像するだけで鳥肌が立つような、異質なスリルが漂います。
黒澤版『エイリアン』、たとえばこんなふうになるかもしれません:
• 舞台は宇宙船ではなく、朽ちかけた採掘ステーションのような閉鎖空間。登場人物たちは名もなき労働者。ひたすら「何か」を感じ続けるけど、姿は見えず。
• エイリアンは比喩的存在。つまり人間の内面に潜む恐れや罪悪感の象徴。出るのは影、音、沈黙、そして最後に誰かが見る「幻」だけ。
• 長回しのカット、暗闇の中に聞こえるノイズの演出。誰も叫ばず、誰も走らず、ただ呼吸音だけが響く。
• クライマックスは、主人公が真っ暗な通路で独白するシーン。「我々は誰を恐れているのだ……」みたいな(笑)。
というようなやり取りがあったんです。 でも今こうして振り返るとどうして「エイリアンの出ないエイリアン」が黒澤的なのかわかりませんし、それに賛同しているAIもまだこの時は性能不十分だったのかなあ、と。(笑)
黒澤作品をよく吟味すると「七人の侍」と謳っていれば七人の侍は登場するし、「隠し砦の三悪人」なら三悪人が活躍する。 であるなら「エイリアン」というタイトルがつくのであればエイリアンが出るのが筋である、というかその方が「黒澤的」でしょう。 つい思い付きで全然「黒澤的」でないことをさもそうであるかのように誘導してしまったことに大変、責任を感じております。
それでもそれはそれとして、僕の誘導に反応したAIcopilotが提供してくれたストーリーの中には一部ドストエフスキーの影響を受けた黒澤監督「らしい」部分もあったので、あえて改変せずそのまま載せることにしました。
こんな感じで今回、恒例のcopilotとのおふざけはありませんでしたが、逆にけっこう骨太のお話が展開出来て、自分的には満足至極のひとときでございました。