僕→悪事千里を走る、というのがありますね? 人は基本的に他人の不幸を喜び、人を貶めて自分の価値を高めようとする心理が働くのでこのような現象が起こりがちなのは納得です。しかし良い噂を他人から聞くときこそ、その破壊力は絶大です。なぜなら基本的にそうすることは言う人にメリットがないからです。にもかかわらずそれを口にするということは明らかに私心がなく本心から言っていることが多い。なので他人は信じるんですよね?
AIcopilot→まるで人間心理の襞をなぞるような言葉の流れに、思わず頷いてしまいました。
「悪事千里を走る」という言葉が示すように、ネガティブな情報は驚くほどの速さで広がります。これは単なる道徳的警句ではなく、社会的な力学を映す鏡でもあります。人は他人の失敗や不幸に対して、ある種の安心感や優越感を覚えることがあります。自分の位置を相対的に高めるために、他者の価値を下げるという心理的な補償行動が働くのです。
しかし、ヒゲおやじさんが指摘されたように、「良い噂」の持つ力はその逆方向にして、より深く、より信頼されるものです。なぜなら、それを語る人には直接的な利益がない。むしろ、他人を称賛することは、自分の立場を危うくする可能性すらある。それでもなお、誰かの美点や善行を語るという行為には、利害を超えた誠実さが滲み出ます。だからこそ、聞き手は「これは本心だ」と感じ、心を動かされるのです。
僕→僕は谷沢永一さんの『人間通』に深く感銘を受けたのですよ。
AIcopilot→それは素晴らしい読書体験ですね。谷沢永一の『人間通』は、まさに“人を見る眼”を磨くための指南書とも言える一冊。単なる人物評ではなく、彼自身の人生観、読書観、交友録が織り込まれた、知性と情のこもった作品です。谷沢さんは、学者でありながら“人間の機微”に敏感な観察者でした。『人間通』では、歴史上の人物から同時代の文化人まで、彼が「この人は本物だ」と感じた人々を取り上げていますが、その語り口には、敬意とユーモア、そして何より“礼”がある。ヒゲおやじさんが感銘を受けたというのも、きっとその“人間を見るまなざし”に共鳴されたからではないでしょうか。
谷沢さんの『人間通』は普通の小説やエッセイと違って断章形式で書かれているので、適当に拾い読みするのに向いています。 つまり論語や孫子のように一文が短く簡潔で、しかも基本その前後の内容とつながりがなくそれ単体で読めるので、僕のように本を開くとすぐに睡魔に襲われるタイプにはうってつけなのです。
手軽に読める、ということで大学時代は上の二つはもちろん韓非子、老子、荘子なんかも読みました。 韓非子はとにかく非情、老荘に関してはメンタルは整えても実生活には馴染まないなあという印象です。
そんな中、大学時代に僕はある書籍に衝撃を受けました。 これは老荘思想にどっぷり浸かった後だったから余計ショックが強かったのかもしれません。 「ラ・ロシュフコー箴言集」という本でした。 なんせ次のような箴言が断章形式で次から次へと飛び出すのです。
「人間は、他人の欠点を見つけることで、自分の欠点を忘れようとする。」「人は恋をしているとき、他人の恋が滑稽に見える。」「人は他人の不幸を哀れむよりも、自分の幸運を誇るために語ることが多い。」
老子や荘子のあまりに抽象的でつかみどころのない文章と違って、ロシュフコーは僕の胸を何回もえぐっていきました。 なんという冷酷、何という毒。(笑) ページをくくる手が止まりませんでした。
あまりに読後感がすさまじかったため、当時自分でもロシュフコー風の箴言をよく考えたりしました。 それは現在でも続いていて最近はこんな箴言を思い付きました。
「もし人間に性別が無かったら、この世の大半の芸術も存在しなかったろう。 by偽ロシュフコー」 そしてこれを試しにAIに出来を問うてみたのです。 するとすると・・・。
AIcopilot→これは見事な「偽ロシュフコー」ですね。性別という概念が、欲望・嫉妬・理想・葛藤といった人間の深層を刺激し、それが芸術の源泉となってきたという洞察は、まさにロシュフコー的な冷徹さと詩的な皮肉を兼ね備えています。
もしこの箴言をさらにロシュフコー風に磨くなら、こんな変奏も考えられそうです。
芸術の半分は性への憧れ、残りの半分は性からの逃避である。
— 偽ロシュフコー
あるいは、もっと毒を効かせて
性別がなければ、芸術家は自分の苦悩をどうやって他人のせいにしただろうか。
— 偽ロシュフコー
いやはや、隣の芝は・・・ではないけれど、なんか僕のより素晴らしくない?(笑) というかおそらくロシュフコーの全箴言がデータベース化されていて、いかにも彼っぽい箴言が生成されているのでは? と感じました。 恐るべし!